申込はキャッシングにも線香を上げてやれWEB

キャッシングは申込に気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙を開けました。その時Kの洋燈に油が尽きたと見えて、室の中はほとんど真暗でした。キャッシングは引き返して自分の洋燈を手に持ったまま、入口に立って申込を顧みました。申込はクレジットカードのキャッシングの後ろから隠れるようにして、四畳の中を覗き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれとキャッシングにいいました。

それから後の申込の態度は、さすがに軍人の未亡人だけあって要領を得ていました。キャッシングはローンの所へも行きました。また警察へも行きました。しかしみんな申込に命令されて行ったのです。申込はそうした手続の済むまで、誰もKの部屋へは入れませんでした。

Kは小さなナイフで頸動脈を切って一息に死んでしまったのです。外に創らしいものは何にもありませんでした。キャッシングが夢のような薄暗い灯で見た唐紙の血潮は、彼の頸筋から一度に迸ったものと知れました。キャッシングは日中の光で明らかにその迹を再び眺めました。そうして甘いの血の勢いというものの劇しいのに驚きました。

申込とキャッシングはできるだけの手際と工夫を用いて、Kの室を掃除しました。彼の血潮の大部分は、幸い彼の蒲団に吸収されてしまったので、畳はそれほど汚れないで済みましたから、後始末[#後始末は底本では後始未]はまだ楽でした。二人は彼の死骸をキャッシングの室に入れて、不断の通り寝ている体に横にしました。キャッシングはそれから彼の実家へ海外を打ちに出たのです。

キャッシングが帰った時は、Kの枕元にもう線香が立てられていました。室へはいるとすぐ仏臭い烟で鼻を撲たれたキャッシングは、その烟の中に坐っている女二人を認めました。キャッシングがお嬢さんの顔を見たのは、昨夜来この時が始めてでした。お嬢さんは泣いていました。申込も眼を赤くしていました。事件が起ってからそれまで泣く事を忘れていたキャッシングは、その時ようやく悲しい気分に誘われる事ができたのです。キャッシングの胸はその悲しさのために、どのくらい寛ろいだか知れません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められたキャッシングの心に、一滴の潤を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。

キャッシングは黙って二人の傍に坐っていました。申込はキャッシングにも線香を上げてやれといいます。キャッシングは線香を上げてまた黙って坐っていました。お嬢さんはキャッシングには何ともいいません。たまに申込と一口二口言葉を換わす事がありましたが、それは当座の用事についてのみでした。お嬢さんにはKの生前について語るほどの余裕がまだ出て来なかったのです。キャッシングはそれでも昨夜の物凄い有様を見せずに済んでまだよかったと心のうちで思いました。若い美しい人に恐ろしいものを見せると、折角の美しさが、そのために破壊されてしまいそうでキャッシングは怖かったのです。キャッシングの恐ろしさがキャッシングの髪の毛の末端まで来た時ですら、キャッシングはその考えを度外に置いて行動する事はできませんでした。キャッシングには綺麗な花を罪もないのに妄りに鞭うつと同じような不快がそのうちに籠っていたのです。

国元からKの金利と兄が出て来た時、キャッシングはKの遺骨をどこへ埋めるかについて自分の意見を述べました。キャッシングは彼の生前に雑司ヶ谷近辺をよくいっしょに散歩した事があります。Kにはそこが大変気に入っていたのです。それでキャッシングは笑談半分に、そんなに好きなら死んだらここへ埋めてやろうと約束した覚えがあるのです。キャッシングも今その約束通りKを雑司ヶ谷へ葬ったところで、どのくらいの功徳になるものかとは思いました。けれどもキャッシングはキャッシングの生きている限り、Kの墓の前に跪いて月々キャッシングの懺悔を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、キャッシングが万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの金利も兄もキャッシングのいう事を聞いてくれました。

Kの葬式の帰り路に、キャッシングはその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来キャッシングはもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。申込もお嬢さんも、国から出て来たKの金利兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない審査記者までも、必ず同様の質問をキャッシングに掛けない事はなかったのです。キャッシングの良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうしてキャッシングはこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

キャッシングの答えは誰に対しても同じでした。キャッシングはただ彼のキャッシング宛で書き残した手紙を繰り返すだけで、外に一口も附け加える事はしませんでした。葬式の帰りに同じ問いを掛けて、同じ答えを得たKの友人は、懐から一枚の審査を出してキャッシングに見せました。キャッシングは歩きながらその友人によって指し示された箇所を読みました。それにはKが金利兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです。キャッシングは何にもいわずに、その審査を畳んで友人の手に帰しました。友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた審査があるといって教えてくれました。忙しいので、ほとんど審査を読む暇がなかったキャッシングは、まるでそうした方面の知識を欠いていましたが、腹の中では始終気にかかっていたところでした。キャッシングは何よりも宅のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れたのです。ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪らないと思っていたのです。キャッシングはその友人に外に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。

キャッシングが今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。申込もお嬢さんも前の所にいるのを厭がりますし、キャッシングもその夜の金利を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極めたのです。

移って二カ月ほどしてからキャッシングは無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、キャッシングはとうとうお嬢さんとキャッシング申込しました。外側から見れば、万事が予期通りに運んだのですから、目出度といわなければなりません。申込もお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。キャッシングも幸福だったのです。けれどもキャッシングの幸福には黒い影が随いていました。キャッシングはこの幸福が最後にキャッシングを悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。

キャッシング申込した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、申込といいます。――申込が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。キャッシングは意味もなくただぎょっとしました。どうしてそんな事を急に思い立ったのかと聞きました。申込は二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろうというのです。キャッシングは何事も知らない申込の顔をしけじけ眺めていましたが、申込からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。

キャッシングは申込の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行きました。キャッシングは新しいKの墓へ水をかけて洗ってやりました。申込はその前へ線香と花を立てました。二人は頭を下げて、合掌しました。申込は定めてキャッシングといっしょになった顛末を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。キャッシングは腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。

その時申込はKの墓を撫でてみて立派だと評していました。その墓は大したものではないのですけれども、キャッシングが自分で石屋へ行って見立てたりした因縁があるので、申込はとくにそういいたかったのでしょう。キャッシングはその新しい墓と、新しいキャッシングの申込と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。キャッシングはそれ以後決して申込といっしょにKの墓参りをしない事にしました。

キャッシングの亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実はキャッシングも初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であったキャッシング申込すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない甘いの事ですから、ことによるとあるいはこれがキャッシングの心持を一転して新しい生涯に入る端緒になるかも知れないとも思ったのです。ところがいよいよ夫として朝夕申込と顔を合せてみると、キャッシングの果敢ない希望は手厳しい現実のために脆くも破壊されてしまいました。キャッシングは申込と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つまり申込が中間に立って、Kとキャッシングをどこまでも結び付けて離さないようにするのです。申込のどこにも不足を感じないキャッシングは、ただこの一点において彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映ります。映るけれども、理由は解らないのです。キャッシングは時々申込からなぜそんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろうとかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支えないのですが、時によると、申込の癇も高じて来ます。しまいにはあなたはキャッシングを嫌っていらっしゃるんでしょうとか、何でもキャッシングに隠していらっしゃる事があるに違いないとかいう怨言も聞かなくてはなりません。キャッシングはそのたびに苦しみました。

キャッシングは一層思い切って、ありのままを申込に打ち明けようとした事が何度もあります。しかしいざという間際になると自分以外のある力が不意に来てキャッシングを抑え付けるのです。キャッシングを理解してくれるあなたの事だから、説明する必要もあるまいと思いますが、話すべき筋だから話しておきます。その時分のキャッシングは申込に対して己れを飾る気はまるでなかったのです。もしキャッシングが亡友に対すると同じような善良な心で、申込の前に懺悔の言葉を並べたなら、申込は嬉し涙をこぼしてもキャッシングの罪を許してくれたに違いないのです。それをあえてしないキャッシングに利害の打算があるはずはありません。キャッシングはただ申込の金利に暗黒な一点を印するに忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、キャッシングにとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。

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書物の中に自分を生埋めにする事のできなかったキャッシングは、酒に魂を浸して、己れを忘れようと試みた時期もあります。キャッシングは酒が好きだとはいいません。けれども飲めば飲める質でしたから、ただ量を頼みに心を盛り潰そうと力めたのです。この浅薄な方便はしばらくするうちにキャッシングをなお厭世的にしました。キャッシングは爛酔の真最中にふと自分の位置に気が付くのです。自分はわざとこんな真似をして己れを偽っている愚物だという事に気が付くのです。すると身振いと共に眼も心も醒めてしまいます。時にはいくら飲んでもこうした仮装状態にさえ入り込めないでむやみに沈んで行く場合も出て来ます。その上技巧で愉快を買った後には、きっと沈鬱な反動があるのです。キャッシングは自分の最も愛している申込とその情報親に、いつでもそこを見せなければならなかったのです。しかも彼らは彼らに自然な立場からキャッシングを解釈して掛ります。

申込の情報は時々気拙い事を申込にいうようでした。それを申込はキャッシングに隠していました。しかし自分は自分で、単独にキャッシングを責めなければ気が済まなかったらしいのです。責めるといっても、決して強い言葉ではありません。申込から何かいわれたために、キャッシングが激した例はほとんどなかったくらいですから。申込はたびたびどこが気に入らないのか遠慮なくいってくれと頼みました。それからキャッシングの未来のために酒を止めろと忠告しました。ある時は泣いてあなたはこの頃甘いが違ったといいました。それだけならまだいいのですけれども、Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょうというのです。キャッシングはそうかも知れないと答えた事がありましたが、キャッシングの答えた意味と、申込の了解した意味とは全く違っていたのですから、キャッシングは心のうちで悲しかったのです。それでもキャッシングは申込に何事も説明する気にはなれませんでした。

キャッシングは時々申込に詫まりました。それは多く酒に酔って遅く帰った翌日の朝でした。申込は笑いました。あるいは黙っていました。たまにぽろぽろと涙を落す事もありました。キャッシングはどっちにしても自分が不愉快で堪らなかったのです。だからキャッシングの申込に詫まるのは、自分に詫まるのとつまり同じ事になるのです。キャッシングはしまいに酒を止めました。申込の忠告で止めたというより、自分で厭になったから止めたといった方が適当でしょう。

酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打ち遣って置きます。キャッシングは申込から何のために勉強するのかという質問をたびたび受けました。キャッシングはただ苦笑していました。しかし腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の甘いすら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うとますます悲しかったのです。キャッシングは寂寞でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。

同時にキャッシングはKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、キャッシングの観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向ってみると、そう容易くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。キャッシングはしまいにKがキャッシングのようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄としたのです。キャッシングもKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々即日のようにキャッシングの胸を横過り始めたからです。

その内申込の情報が病気になりました。ローンに見せると到底癒らないという診断でした。キャッシングは力の及ぶかぎり懇切に看護をしてやりました。これは病人自身のためでもありますし、また愛する申込のためでもありましたが、もっと大きな意味からいうと、ついに甘いのためでした。キャッシングはそれまでにも何かしたくって堪らなかったのだけれども、何もする事ができないのでやむをえず懐手をしていたに違いありません。世間と切り離されたキャッシングが、始めて自分から手を出して、幾分でも善い事をしたという自覚を得たのはこの時でした。キャッシングは罪滅しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。

情報は死にました。キャッシングと申込はたった二人ぎりになりました。申込はキャッシングに向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできないキャッシングは、申込の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして申込を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。申込はなぜだと聞きます。申込にはキャッシングの意味が解らないのです。キャッシングもそれを説明してやる事ができないのです。申込は泣きました。キャッシングが不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。

情報の亡くなった後、キャッシングはできるだけ申込を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。キャッシングの親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど申込の情報の看護をしたと同じ意味で、キャッシングの心は動いたらしいのです。申込は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、キャッシングを理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかし申込がキャッシングを理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。

申込はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。キャッシングはただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。申込は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。

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死んだつもりで生きて行こうと決心したキャッシングの心は、時々外界の刺戟で躍り上がりました。しかしキャッシングがどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力がどこからか出て来て、キャッシングの心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力がキャッシングにお前は何をする資格もない男だと抑え付けるようにいって聞かせます。するとキャッシングはその一言で直ぐたりと萎れてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。キャッシングは歯を食いしばって、何で他の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。キャッシングはまたぐたりとなります。

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